自室独房生活十一日目を終えて

4月に入り、生活ががらりと変わった。

新型コロナウイルスの影響もあって、仕事は4月に入ってからずっと在宅勤務だ。これまでずっと在宅勤務が可能か不可能かは、空論のままであった。しかし状況が状況だからか急速に社内の改変は進み、無事に在宅勤務制度が整った。まだ上層では古臭い社風を漂わす様な気配も伺えるが、現に東京に出向かなくても良いというだけで安堵している。私は実家で暮らしているし、東京から帰ってくる私が感染源となってはいけない。私自身が感染するということよりも、潜伏期間が長いと言われている新型コロナウイルスを家族に撒き散らす訳にはいかない。社会人2年目ということもあって、未だに社内のルールや動き方に不明瞭な部分もあるけれど、幸いにも私の属しているチームの上司は私の家庭環境や内情を理解してくれている。恵まれている環境下で労働をすることができていると感じる日々である。正直、上司が人格者であるとは入社当時には思ってもいなかった。本当に有り難い限りだと思う。

正直、最近の私は新型コロナウイルスに酷く精神を蝕まれていたし、電車に乗るだけで自分が感染してしまうのではないかと恐怖心を抱いていた。治療薬の発見されていない未知のウイルスだから、そうなってしまうのも仕方ないと普段の私の性格から感じている。反面、これでも外で複数人で遊んだりする人がいるのも確かであった。(さすがに最近になって減ったが)身近な人は幸いにもそういった人が少ないと思っているが、この状況下をどう読み取るのかは人間関係にまで侵食している様な気がしてならない。ウイルスではない人間による二次災害は既に始まっている。

ただ、私は在宅勤務ができる職業柄だが、できない人もいる。その様な人たちが一刻も早く安心していられるような日常に戻って欲しい。綺麗事の様に聴こえるかもしれないが、人の外出を減らさない限りはどうにもならない。

そんな私の生活はというと、朝8時に起きてシャワーを浴び、自室に籠もる日々を繰り返している。殆どは18時に仕事を終え、固まった足を解しに軽く人気の少ない夜道を風になびかれながら散歩をする。幸いにも田舎に住んでいると、気分転換に人の居ない場所に外出ができる。たまにはドライブも良いかもしれないが、過度な外出はそれでも止めにしておきたいところだ。そして毎晩の様に酒を飲み(これが私にとって一番の弊害かもしれない)、本を読んだり新しい企画を考えたりする。通勤時間が削減されたことで異常に疲れることもないし、精神的にも楽だ。そんな生活を持って始まった社会人生活2年目。

不慣れな自室独房生活。気分転換にと近所の花屋で買った赤い薔薇やカーネーションを飾ったりして気晴らしに眺めている。毎日水を替え、花の栄枯盛衰を見届ける。これだけがこの部屋の中で時間の経過を教えてくれる。花と共生する事で自閉的にならずに済んでいる。これまでの私では想像のできない日々と時間が私の内に訪れようとしている。

新型コロナウイルスによって日常が奪われていくということは、同時に季節を奪われるということであって、これまで何の焦りも不安もなく道端に咲く花々や桜を見ては季節を感じてきた。時間の経過、季節の経過、自然の経過。これから先も閉じ籠もって生きていれば、幾らバーチャルが発達しようとも、心は褪せて廃れていく。

無事に来年は桜を見て、綺麗だと言いたい。来年どころか、夏を無事に迎えたい。大きく休みを取って、絶対に旅行に行くと決めている。会社から貰った2万円の食事券が夏より後には使えなくなってしまう。だから今、社会に対してできる事を。STAY HOME.

ARCHIVE  2019/1/10 2:03:55 新年不法投棄人生

 

 

過酷で過剰な労働について

 私は年末は30日まで、年始は2日からと労働をこなしている。4年連続で「正月を捨てた人間」は私のことである。というのも、「金が欲しい」という得た先に目的も見出していない、ただ欲望を満たしたかったからだ。昨年振り返ってみれば思うように金を使うことはできなかったし、好きなものや服を手に入れる自由というものは一切なかったと言える。これが生活をしていくにおいて本当に辛いなと思わされる。そりゃ何か言い訳を作って純喫茶に行ったり、本を読む事も一つの欲を満たす行為にあたるわけだけど、そうじゃなくてもっと大きな何かを金で買いたい。あの大金を一括で支払った時の鳥肌の立つ感覚を味わいたい。その一心が私の全てを動かしている。なので、新年早々に労働をしていることに対して褒めろとは言わない。金をくれ。金が欲しい。それだけのことなのだ。

過剰なカフェイン摂取について

 酒は昼間から飲めないし煙草は労働環境上、労働後でなければ吸ってはイメージが低下するといったくそったれの世界なので、縋り付くものは決まってカフェイン飲料だ。昨年12月の話になるが、卒業論の締め切りに追われモンスターエナジードリンクを大学受験ぶりに愛飲した。大学受験の頃はこのカフェイン暴力飲料を愛飲し、Tシャツをゲットしていたのだから今よりも命削って生きていたといえよう。その名残からか過酷で過剰な疲労に襲われるとどうしても何か縋り付きたくなるわけであって、その存在がカフェイン飲料であっただけなのだ。それだけのことなのだ。

 加えて珈琲というカフェイン飲料は何かとくっついてくる存在である気がしてならない。卒論。喫茶。休憩。読書。煙草。気が付けば今日は3杯、4杯というのは日常茶飯事である。どう思われようが珈琲には煙草である。Peaceがうまい。本当にもう駄目だ。

 昨年は休日の合間合間に純喫茶巡りをうまいこと動くことができなかったので、再開した。因みに「神保町ラドリオ」は昨年個人的純喫茶ランキング第一位である。ウインナーコーヒーを日本で初めて出したところでもある。店内のこじんまりとした雰囲気も可愛げがあり、街並みに溶け込んだ神保町らしい喫茶だ。それもあって今年は珈琲愛飲家を自称していきたい。今年は他の追随を許さない珈琲proになる。

 

tabelog.com

 

 過剰なprofessional意識による思考の制限について

 今後のキャリアについて深く考える昨年であったが故に、仕事におけるprofessional意識が根付いてしまったように思える。そこに「自由」は存在しないし、発想だって思うようにいかない。仕事に連結させたいがあまり、己を殺し、まったくの別人のような抜け殻の自分を演じ切る。それは果たして今後の人生を「生きる」ということなのか。思考が徐々に止まっていくように感じる。新しい景色など、そこにはない。

 

 遅刻は性癖

 まあ、色々なことを書いてみたが新年早々労働先の国語科の講師が「遅刻っていうのは性癖なんだろうねえ」と話してくれたことが忘れられない。遅刻しそうな状況に置かれた時、確かな「ヤバさ」を感じる。「遅れてしまう、怒られる」、「この電車に乗らなければ遅刻する」といったハラハラする展開にもしかすると遅刻癖のある人間は身を置いているだけなのかもしれない。遅刻とはそうやって自分の首を絞めることと同義で、手首をもう片方の手で絞めては血管が膨れ上がるあの感覚と似ているのかもしれない。開放した時のジワリと血の流れる温かな感覚。劣悪で過酷な労働環境に身を置いた人間が漸くして得られる休暇。近親感。

 

 さて、たいへん遅れましたが今年も珈琲をはじめとする様々な適当エッセーを心がけていく所存ですので、どうぞ閲覧される皆さま、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

ARCHIVE 2019/1/10 2:03:55 世間一般的な「若者」によるあれこれ

 書こうと思ったときに書くことが大切で衝動的な感情、衝動的な動機といったものだけで当ブログは書いていきたいと常々思っている。そして書くことでそれを再認識し続けている。ジャンルを問わず「適当エッセー」みたいなものを続けていくことがどこの誰に観られているのかもわからないブログってやつの良いところなのです。

 

本題ですが

 私は趣味とまではいかないが偶に入る「銭湯」というものが好きだ。その多くは友人達に連れられ、露天風呂から銭湯まで、様々である。私はお湯に浸かる事はもちろん、浴場で人々が無心になって天井を見上げている姿を見ること、サウナで人々が己との対峙に励んでいる姿を見ること、自身もその内の一人であることにある種の快楽を得ているのだと思う。なんだか人間はどんな道で歩み、生きていこうと「風呂」の中では同じ生き物なのだと考えさせられる。最高だ。風呂は。 

 私はある時を境に、「サウナ」に嵌っている。いつが原点なのかは私にもわからない。しかし、あの「サウナに入った後に得られる一種のトランス状態」という他の行為では得る事のできない、快感がクセなのだ。サウナと水風呂の交互連鎖撃は正に身体を四方八方から殴りかかってくる。苦痛に耐えてこそ、見られる世界は美しい。

 そもそも、サウナの歴史とか発端とかそういったものを詳しく見ていくと非常に興味深いもので、面白い。

 サウナの起源は、2000年以上前のフィンランドのガレリア地方。食料を貯蔵したり、スモークするための小屋が、いつのまにか沐浴をする場所へと変わって行きました。そして、白夜の夏と厳しい冬の風土の中で、人々の健康に欠かせないサウナへと進化したのです。サウナが国際的に注目されたのは、1936年のベルリンオリンピックの時。フィンランドチームがサウナを持ち込んで以来、他国の参加選手達がそれぞれの国に持ち帰りドイツをはじめ多くの国々でサウナが取り入れられるようになりました。日本では、1964年の東京オリンピックの選手村にサウナが設けられたのを契期に全国に拡がりました。 

www.fsj-ms.com

 

サウナにはどんな医学的な効果があるのでしょうか。まず「疲労回復」。温熱による大量の発汗で、体内に蓄積した老廃物や疲労物質を対外に放出し、疲れやストレスを取り去ります。また、発汗を繰り返すことで皮膚や汗腺が洗われ、毛穴が開いて老廃物を取り除くなど、いわゆる「美容効果」も期待できます。さらにサウナは、毛細血管を拡張して血流をスムーズにし、新陳代謝を活発化することにより冷え症などの循環障害やリウマチ性の関節炎などにも効果を発揮します。このほかにも、「食欲増進効果」「安眠効果」「老化防止効果」などが期待できます。

www.fsj-ms.com

 

と、まあ色々と効能があり、期待がありと魅力的なサウナであるけれど、私にとってはそんなことどうでもよかった。サウナに入り水風呂に浸かる。無心になって己だけを見つめる。今にも膨れ上がっては破裂しそうになる腕の血管を見ながら「ああ、苦しい」と心の中で唱えながら限界まで蒸された空間に居続ける。水風呂もまたその後に耐えなければならない小試練的なもので、急激に冷やされる身体の内に存在する血管の収縮感と心臓の圧迫感、立ち上がる時に得られる視界のふらつき。これらに耐えられるか己を試すことだけがサウナの醍醐味であって、それだけが全てなのである。そもそも、日々削られゆくこの精神も、肉体も一時の健康法だけでは快復しないし、寧ろサウナってやつは己を見つめるために命を捧げている。それにサウナの後に食べる油分の多い飯は格段に美味しいので。こりゃだめだ。

 先日書いたグダグダなエッセーにも「遅刻は性癖」という国語科講師のぼやきを勝手に自論展開したわけだが、それを正に具現化したのはサウナで、己の意思の下で絞めた首は心地良い。ストイックであれ。



 

 

雑記の中の雑記・書こうとして没になった塵達

・プルームテックを手に入れた。室内無臭喫煙最高。

Amazonで続々と購入した本が届く。

・今年に入っていい感じの出会いがない。コミュニティが労働によって狭められている。結婚も恋愛も今は興味ゼロなので休日に喫茶巡りとか新規開拓フレンズが欲しい。

卒業論文が何故かゼミ内で良い感じらしい。よりによってこういうことだけがうまくいく人生。メインストーリーが進行しない。

以上。

ARCHIVE 2018/11/30 2:05:36  舞台「豊饒の海」を観て・三島由紀夫という存在について

 ご無沙汰。やっぱりiPhoneから投稿するよりも、キーボードを打ってかたかたと投稿していく方が良い。単純に文字入力の早さが後者のが早いだけなのだが。まあ場面場面ということで。

 やっぱり、このブログには私自身の日常的に行っている「制作活動」については伏せていこうと思う。そのためブログに書いてある名前も「虚」へと改名した。この虚(うつろ)という名前は、Twitterで自身の思考・意見を述べるアカウントで用いている名前なので、統一した次第。あまりはてなブログに対してアクセス数や人気などを考える気にもならないので、自由にやっていこうという決意も含んでいる。

 さて、今日の本題に入りたい。先日は椎名林檎のライブに行ったわけだが、その二日後に舞台「豊饒の海」を新宿 紀伊国屋サザンシアターにて鑑賞してきた。三島由紀夫の作品ともあって、中々原作を読んでいた私からしても、感想や思考を文章にするのは難しい。鑑賞から少しばかり時間が経ってしまった。

 また、先週においては稀に起こる「芸術鑑賞ウィーク」だった。これほど時間を芸術に充てられる幸せな休暇はないだろう。

www.parco-play.com

 

 

原作「豊饒の海」について

 「豊饒の海」は三島由紀夫における最期の作品であり、長編小説だ。全四部作という非常に重厚ではあるが晩年の三島の世界観を説明するにはこの作品を推薦すれば凡そは理解されるであろう。個人的な推薦としては「憂国」、「女神」、「金閣寺」を薦めたいが、私自身も三島を完全に理解(は不可能であると思っているけれど)していないので自身で読み進め、個人としての理解の上で三島の魅力に憑りつかれるべきであろう。

豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の最後の長編小説。『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語で、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る。最後に三島が目指した「世界解釈の小説」「究極の小説」である。最終巻の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。

第一巻は貴族の世界を舞台にした恋愛、第二巻は右翼的青年の行動、第三巻は唯識論を突き詰めようとする初老の男性とタイ王室の官能的美女との係わり、第四巻は認識に憑かれた少年と老人の対立が描かれている。構成は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆくという流れとなり、仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬などの東洋の伝統を踏まえた作品世界となっている。また様々な「仄めかし」が散見され、読み方によって多様な解釈可能な、謎に満ちた作品でもある。 

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 

 

舞台「豊饒の海」を観て

 舞台を観に行ったわけだから、舞台の話を少しだけ触れて三島由紀夫という人間についてみていきたい。紀伊国屋サザンシアターは初めて訪れた劇場であったが、やはり新宿の中心からは離れた場所。人の気配があまりない、静かで高貴な印象すら抱かせるような場所だ。

 やはり座席は映画にしろ何にしろ、中心を好む私である。この日以外よりも早く公演を観に行くこともできたが、座席を加味して舞台の後半期とも言えるこの日に観に行った。

 鑑賞前、原作を読んでいたからこその期待と、四部作をおよそ二時間半強で仕上げるという不安があった。結論として非常に完結された舞台であったと感じている。松枝清顕役の東出昌大は開始五分ほどで登場、白いシャツにサスペンダー姿がこの舞台におけるメイン衣装。いやほぼこの姿しか見なかったか。三島の想う「若さ」や「肉体」を可視化しているような東出昌大に、思わず見惚れてしまった。本田繁邦役の三方(大鶴佐助首藤康之笈田ヨシ)はそれぞれの本多繁邦を全うしていた。中でも大鶴演じる青年期の本多はそれこそ青々とした年頃の少年のような本多の一つの実体であると感じられた。そして晩年の本多を演じる笈田ヨシ氏は生前の三島との交流があったとのこと。(豊饒の海公式プログラムより)御年85歳ともなる笈田ヨシ氏。勝手ながら笈田氏を観て、「年齢」を重ねた生の厚みは三島の思想とは対照的ではあるものの、やはり一つの理想だと認識させられた。話が逸れそうなので簡潔に述べたいところだが、人生において一つの職業・役柄をどれだけ続けていられるか、これは私にとってもこの小さな一つの人生において課せられているものである。

 また、劇中の黒子の動きのしなやかさ、時に時間にまとわりつくような粘り気のある動きに心を夢中にさせられたのもこの舞台の魅力であろう。ライトアップされた正方形の小さな舞台。黒子によるシーンづくりはもはや一つの役者であり、主役でもあった。終盤における黒子の「波」を想起させられるような一連の動き。風と海。波の音といったものをシンクロナイズした彼らの動きには評価するものがあるだろう。

 舞台「豊饒の海」は、原作を読まずとも愉しめる作品となっていたことは確かだ。そして「三島の意志や最期の作品であるといった事実」を尊重して作られた脚本、演出。これらは作り手における三島愛がなければ作ることのできないものである。並大抵のものではないはずだ。そういった気迫さえ感じる事のできた舞台であった。

私自身が崇拝する三島文学について

 私自身、豊饒の海をはじめとする三島文学のファンである。その言葉の重厚感、崇高な印象すら与えられる文章に、私は惚れ惚れとした記憶を抱いたわけだ。初めて三島由紀夫の作品を読んだときにはその文章の理解しがたさから、読むことを諦めてしまった経験がある。最初からすんなりと三島を読み込めた人間がいるのかどうか、それとも私自身の教養と読書習慣の無さが要因か。ストイックに生きよう。後者だと思い、教養と習慣を付けていきたい。自責自責。他責にするな。少しばかり話がずれたが、三島作品を読む時、私は何とも正面から自分自身と対峙している感覚すら覚える。読了という一つの着地をしたとき、背中にずしりとしたものを背負っている。それだけ消耗する自身の精神的死闘を乗り越え、作品の理解を得ることができると感じている。

 三島由紀夫という人間についての研究は私よりも多くの知に富んだ人々がされているので省略しよう。私は初めて三島の世界観に触れてから、ほぼ毎日のようにYoutubeで三島へのインタビューを観ている。

 

www.youtube.com

 

 

このインタビューにおける4分30秒頃からのテーマである「死生観」。今にも通ずるものを感じる。「死が生の前提になっているという緊張した状態にはない。」という言葉にはこれまでの私自身のぼんやりとした死生観(死は自分において遠い存在、出来事でしかない)を覆された。

 三島の晩年のボディビルは虚弱体質を乗り越えようとする、一つのコンプレックスへの脱却とも受け取れるのはマニアには有名な話だろう。私自身もつい2ヶ月ほど前から筋トレなるものをはじめたが、理由は三島のそれに近い。身体の線の細さ、人間としての弱さ。これらは他者からしたらどうでもよいことなのだろうが、自分自身の精神の容れ物である以上は屈強で逞しくありたいものだ。そして何より、この経年変化する肉体。どうにかして「若さ」と「強さ」を持ち合わせていたいのである。

 他にも色々と述べていきたいところだが、これはまた別の作品を読んだ時にしよう。いつも通り、うまくまとまらないがこの辺で。

ARCHIVE 2019/8/4 17:58:12 やがて死ぬ

 人の精神を焼き殺すように都会の夏という季節は暑く、苦しい。夏の風物詩の一つとして縁日や花火といったものがあるが、私は冷房の効いた喫茶店で無心で文章を読んだり、書いたりする方が良い。本の中で季節を知ると、どうも自分にはその情景を再現したくなるような感覚に陥るが、夏だけは別物だ。日光が身体を焼き、火照る身体が精神を殺す。その過程は実に一瞬で、私は酷く嫌っている。だが、夏になると途端にアイスコーヒーが美味くなる。恐らく夏を生きていく為の術として、与えてくれたのだろう。

 昨日とは変わって、今日は日中の予定がなかった。久しぶりの休日のような感覚を覚える。普段時間に追われて歩く新宿という街も何だか少しだけゆっくりと時間が流れているような気がした。「写真」という広義で個人にしか理解できない概念をずっと考えていた。写真を撮るとはどういうことか。写真を何故撮っているのか。時間に追われると、いつしか自分自身を殺している様な気持ちになるから今日くらいは、と思って街にカメラを持って飛び出した。汗を垂らしてカメラを街に向ける。たまにはこんな日があっても良い。

 撮らなければ答えは見つからず、況してや思考すらできない。パーソナルな部分をどう表現していけば良いのかはカメラを事物に向けることで初めて気が付くことができる。そうでない部分に関しては、カメラを持っている人なら誰でもできてしまうのだと思っている。

 夏はいつか自分を殺して過ぎ去っていく。そうなる前に涼しい空間で少しでも自分自身を見つめ直す時間を作っていくことができたのなら、また一つ新たなものを生み出すことができるだろう。

ARCHIVE 2019/9/29 13:24:43 存在

9月22日 16時23分 父が現世を離れた。

どうも日が経つに連れてその実感というものは虚実なのではないかと錯覚に陥っている気がする。

遺された母も自分も、何だか気分は明るい。僅かな空元気を振り絞っている。

諸々の葬儀関係が終わり、弔いの感情は其処に置き去りにされてしまったような。その気持ちを安心して抱く事ができるのは、もう少し後になるだろう。

明確な事柄は伏せるとして、遺産には正負が存在する。その実態をどれだけ亡くなった本人がこの世に遺して去る事ができるのかがかなり重要である。

駆け足で行わなければならない事も、焦らずに行えば良いこともあるけれど、そういった分別をする事が難しいくらいには焦燥している。母と私が同じ様に焦ってはいけないのだから、少しでも冷静にいたいものだ。

また、同時にどれだけ自分がこれまでに自由奔放で我儘に生きてきたのかという事を理解する。父が病気を患った六年前、高校生だった私はその事実から逃避を繰り返してきた。

どうも高校生の私には17年間の歳月だけでは実父を失う未来が近いということが酷く恐ろしく、考える事ができる程大人ではなかったのだ。

 

父が亡くなる二年前、叔母が亡くなった。夢を一番理解してくれた叔母がいなくなった時、これほど悲しさを覚える事はなかった。同時に死というものを身近な存在と考える様になり、私における人生のテーマは"理想的な死に向かう人生"になった。

"今を生きる"とは一体どういった事だろうか?夢や目標を抱かないままに限りある時間を過ごす事はこれまでに育ててくれた両親や叔母、そして祖父に背を向けて生きていくことになるのではないだろうか?

漠然としていた当時に叔母が亡くなってから、そんな事ばかりを考え続け、写真を撮る事に時間を費やしてきた。それが正解だろうが間違いだろうが、それは死ぬ瞬間の自分にしか分からないものだと唱え続けながら。

父の死は、それが間違っていないと客観的に支持してくれた。逃避を繰り返している私に、末期の父の為に何ができるのか、ずっと考えていた。亡くなる三ヶ月前、家で立ち上がる事もままならない父が、「頑張るから、立って写真を撮ってくれ」と言った。母はこの日を待っていたかの様に外出用の服を用意して父に着させた。父を撮った瞬間のこの上ない父の幸せそうな表情に22年間分の恩を返せたのではないかと思っている。

写真じゃなくても良かったはずだった。子である私が何か一つでも希望を持って父に姿を向けられるのなら。けれども写真は人と人との距離を縮めてくれる。きっかけを作ってくれる。不器用な親と子の関係を素直にさせてくれる。そう考えさせられた。

 

父の葬儀には生前好きだったポケモンと、写真を飾った。時間のある限り、父の旧友の方々にお願いをして、用意をしていただいた。五十歳を過ぎて旧友がこれだけ協力してくれるという事実に父の偉大さを知った。昔話も沢山聞いた。どうやら家の中では寡黙で冷静な父だったけれど、似ているところが沢山あるじゃないか。と子ながらに思った。

 

ただ、あまりにも早過ぎる。もう少し現世で報告がしたかった。欲を言えばその辺のおじさんの様に酒を飲んでいる姿を見ていたかった。二十歳を過ぎれば酒を飲みに行けると思っていた。お互い煙草を吸って、親子だな、なんて感じる瞬間を目の前で思いたかった。でも、今はもうそんな事を言っても叶わない。それが亡くなった事実よりも辛くて悲しくて、寂しくて仕方ない。だから同世代の人は少しでも両親との距離を縮めて欲しいと思う。叶えられるのだから。

父へ後悔もあれば感謝もある。後悔だけはどれだけ考えても思いつき、尽きないものだろう。だから感謝を忘れない。22年間の間、私を不自由なく育ててくれた事へ感謝して、この人生を充足させる事が最大の恩返しであると信じながら。

ARCHIVE 2020/1/5 14:52:20 新年のご挨拶

何だか、新年。そういった気持ちで今年を迎えちゃいました。昨年の私は何だか他人に余裕無しの私であり、ご迷惑を多々おかけしました。今年の私は「ワタシ」を演じて生きていこうと思います。目標はインターネットでは語りません。頑張るぞ。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 ブログを書くのは久々でして、何を書こうかと思いましたが、まあ新年悩み狂っても仕方がないことなので「雑多」という言葉を頼って適当に書いていこうと思います。

 雑多に思考整理

昨年は急がされていた時間の中で生きていたからか、年の瀬を意識することなく終わってしまった。

少しずつ、生活も緩やかさを保つように、落ち着きを取り戻している。

年末年始の大型連休に、会いたかった人たちに会えた。何でもないような時間を共有することが今の自分にとって何よりの幸せであることを、再認識している。

前文削除。 今年は自分の時間にもっと意味を見出していきたいと思っているからだ。行動と反発。その繰り返しをもって、この1年間を忘れられない1年としたい。

その為には、大きな到達点だけでなく、日々の生活の中で自身が設定した道程から外れないような設計をしていかなければならない。アナログ的だけど、メモをせっせと取ることを始めた。きっかけは年末に読んだ1冊の本からだけれど、日々歩いている中で自分自身と対話を繰り返していくその内容を、脳内で終えることなく、紙に書き記していこうと決めた。無論、iPhoneでも良いのだと思うが、敢えて紙に記すということに固執していきたいと考えている。

やるなら、徹底的にやり遂げたい。自分自身を投影する媒体は何だって良い。でも、日常記録的な写真とメモ、この2つは自分自身を今年大きくさせてくれる存在だと信じている。

 

皆さんもサウナにいきましょう

サウナに行きましょう。至福の孤独空間を求めて。求めるものは決して血行促進だとか、肌が綺麗になるとか、それだけではありません。

何か制作・創作している人(勿論はてなブログにて思考整理を行っている方にも該当する気がしますが)には、「自分自身との対話=孤独」の時間が存在する。サウナは思考整理にもってこいの時間と空間である。

年末には、池袋のサウナ・スパ施設「かるまる」に訪れた。池袋という都内好立地と12月にオープンしたということもあって、非常に混雑している。

karumaru.jp

この施設の魅力は、前述した好立地による、仕事終わりに行けてしまうということと、サウナ好きが唸るような風呂とサウナを既に仕上げている所だ。最大4人入ることのできる「立ちサウナ」や、セルフロウリュのできるサウナ。加えて水風呂の温度設定も整っている。屋上の露天風呂からは焼き肉の匂いがして、それもまた私の愛するビッグシティIkebukuroという感じがして良い。

また、休憩処もリクライニングスペースとコワーキングスペースの2箇所があり、サウナに入りがてら作業をして、サウナに入るといった効率的な時間を過ごすことも可能。

現状は男性のみの利用ということだが追々は女性エリアの拡大も視野に入っているとのことなので、今後に期待も大きい。近くに寄った際は是非訪れて「整って」いただきたい。

 

加えて年末、一人小旅行的な感覚で静岡のサウナ「しきじ」に再訪問。聖地と称されたこのサウナは、どうやらここ最近の「サウナブーム」もあって、行列ができていた。

saunashikiji.jp

しきじの館内は非常にシンプルで、一見昨年の5月に訪れた際は「ここが聖地」と疑問を抱いてしまうほどだった。しかし、浴場に入りサウナに向かおうとするとフィンランドサウナと薬草サウナの2つのサウナが私を困惑させる。

どちらも表現できないほどに熱く、心地よい。これまでに入ってきたサウナと比べて入浴後の満足感が違う。熱が肌を刺すような痛みを感じず、じわりじわりと体内の水分が放出される感覚。新幹線で金額を出してでも向かいたくなる場所だ。

※因みに丁度1年前にもこのようなサウナエントリを書いた。以下に私的サウナの魅力が記されている。

因みに、肌はすべすべ、身体は軽やか、自律神経の刺激による脳内活性化的なものを効果として自覚しております。サウナは良い。

 

virtuemr.hatenablog.com

 

 最後に

今年の私を構成するもの「写真・サウナ・メモ」。

適度に本を読んで日常と自分をうまく切り離していきたいところでございます。

ブログも吐き出す手段の一つとして、エントリしていけたらと。 

Romance

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