ARCHIVE 2020/1/26 17:24:09 三島由紀夫の本質を理解しようとする私にー「没後五〇年という歳月」

二〇二〇年。早速一月が終わろうとしている。年末年始に疲弊した精神、身体を伸び伸びとさせた私は、それまでの生活を取り戻す事に懸命になり、またしても「世間、どうでもいい」というセンチメンタルな感情に殺されている。自閉的な時間を休日に与えると、どうしてもそこから輝かしい時間を得ようとする気は無くなっていく。それはさておき、こんな映画が上映される事を知る。

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今年は日頃から愛読している三島由紀夫の没五〇年となる。何やら世間も、それを機としているらしく、三月には「三島由紀夫VS東大全共闘」なんてドキュメンタリ映画が公開される。ナレーションは近頃世間を騒がせている東出昌大だ。そんな世間のことはどうでも良いので映画だけは確実に上映していただきたいものである。

 

前置きはさておき、本題を。前置きにも記した、三島由紀夫について昨日の話を。

一九七〇年十一月二五日。三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を行った。その事実は、三島愛読者でなくとも、ある程度三島由紀夫という人物を知ろうとする人間であれば、既知の事実であろう。

私の中で、三島由紀夫は大きく二面の人物像がある。文としての三島と、武としての三島。双方を切り分けて知る事ができなければ、四十五年という彼の人生を、理解するには難しい。特に後者は、容易に受け入れるものでもないと思っている。(私自身に特別な政治的思想が無いという事も、ここに記しておきたい。)

冒頭に記した様に、私は日頃から三島を愛読している。仮面の告白を読み、彼の青年期の行く宛のない思想や性癖を知り、只々衝撃を受けた事は今でも覚えている。その後、女神や金閣寺、ラディゲの死を読んでは、三島由紀夫という人物を純粋な気持ちで知りたいと感じる様になった。しかし、私には足りないものがあった。それは文面に存在する三島を読もうとしているだけに過ぎなかったということである。

三島由紀夫という人間が実在していたという事実。三島由紀夫とは一体何者なのか。作家としての彼を知ることだけではなく、全てを知りたいという欲求が、いつしか私の内なる部分に潜みはじめていったのである。

一昨年、豊饒の海を完読した瞬間、それは訪れた。現実、物語に現れる様な情景や台詞といったものを、実際に目にしたいと思う様になった。

昨年の「思う様に行かなかった一年」は、致し方のないものであって、一昨年の様に足を運ぶ事はできなかったものの、三島由紀夫の影響から「他人の死」に対する受容体としての新しい理解を得たと考えている。「死」は悲観的事実であると共に、それは他人にとっては単なる一つの出来事でしか無いのである。死に対して、悲観的になるもならないも、受容体である人間の過去にしか左右されないのだ。これを持って私は、ますます、私が「死」を望んでいると知った。「死」というあの世とこの世を結ぶただ一つの出来事が来るその日に、私は興味を抱いている。覚悟しない「死」だけを除いて。

恐らく、私自身の自覚している性格「俯瞰的世間視」は此処にある。私の半生が一瞬にしてある一人の作家に塗り替えられた様に、三島にもその一瞬が存在していたのではないのだろうか。

そう思った私は、日頃の東京という喧騒の交えた綺羅びやかな街から離れるべく、山梨県にある山中湖畔に訪れた。森林のざわめき、野鳥の囀りを聴くべくして。

私は文学の森公園に訪れ、乾いた空気と枯れた枝々に囲まれた三島文学館に向かった。そこには三島由紀夫がまだ三島由紀夫という人物を描かなかった頃ー「平岡公威」少年が詩人として歩もうとする半生と、「三島由紀夫」という青年の晩年までを原稿や写真から感じられる。少年の乱暴で夢を描いた様な可愛らしさすら感じる絵と、晩年に向かうに連れて完成されていく文章の数々。そこには才能と三島自身の過去に対するコンプレックスへの打破しようとする力強さすら感じる事ができる。

この地に何故三島由紀夫文学館が建設されたのかは、晩年の政治的思想や事実から、何処にも建たなかったという一説もあるが、訪問者としてはこの地特有の冷たく、他人の声も聴こえない「自然な」世界に建設されて良かったのではないだろうか。

文学館の庭園には、三島由紀夫邸にあるアポロン像をイメージした像が設置されており、それと真正面にして座ることができる。冬景色に包まれ、この像を眺める一時に、これ程の淋しさを感じたことはこれまでになかったであろう。正に至福と、追い求めているかのような時間であった事をここに記しておく。

※尚、三島由紀夫文学館でしか購入することのできない、三島由紀夫詩集、文学館オリジナル編集の三島由紀夫という人間を記した本がある。事実文学館に訪れる事は頻繁にはできないだろうから、是非とも訪れた際は手にして欲しい。

www.mishimayukio.jp

ARCHIVE 2019/1/18 17:07:25 不健康万歳

 

ブログの最重要性・日常を攫むこと


思考整理という点でブログを書くことは非常に大切であると言える。例えば日常の中で起こる事象の数々、それらを記憶として瞬時に捕えていく。捕えていく、これには何だか一点一点を大切に見つめているといった意味合いを覚える。写真においてもそのようなことは同様に言える。写真は日常的に起こる「事象」を狙うことも一つの使命であると考え、写真を常に撮るという意識の中で自我を存命していかなければ一瞬にして死の淵にさらされる。決してこれは「珍しい事物」を撮るということではない。断片的であると感じられる写真の数々が集積され、一つの「写真群」として群れを成した時にはじめて意味を見出すことができるという理由のみなのである。

皆の生って何

 さて、本題。この頃の私は写真について何を考えているのかわからない。さっぱりわからない。暗さから前がどちらなのか判断できない洞窟に彷徨っているような感覚に陥っている。もう少しだけ広い視点で私全体を見てみると、そもそも「何故生きているのか」これすら理解できない。日常の中で私という価値を見出すことができない。何か残すために生きていく必要性が理解できない。地位を築き、その中で生きていくことが人間としての生なのか。毎日そのような上だけを見て、自我を棄ててせかせかとしている生活を「日常」と言う。これを非日常にしていきたい。それだけのために生きているとすら思える。これが「何故生きているのか」の解なのかもしれない。だからこそ、日常の中で起こる事象について思考を研ぎ澄まし、出版社別・五十音順に並べられた小説の本棚の様に整理していかなければならない。本を読みましょう。

 

不健康万歳を唱えていきたい


 私は「不健康」という状況に身を任せようと新年から試みた。試みた理由は前々から終わりの見えなかった卒業論文が主な要因ではある。具体的に言えば、煙草を吸い、酒を飲み、好きな食事を摂るといった欲望に負けた自分を演じることだ。また、日常生活においても写真について一体この頃の私は何を考えているのかわからず、ただただ参考になりそうな本を読んでは気持ちの下がる一方であった。どうすれば私は写真という一つの表現技法ともいえるアウトプットの場において純度の高い私を放出することができるのだろうか?どうすれば私はこの日々後ろめたく、生活の一切が否定的な感情から始まる人間であるにも関わらず、前進することができるのだろうか?
 結論から言えば「不健康」に身を投げた私は良くも悪くも「不健康」であることが、私自身の最もらしい生活、思考を導いてくれることを実感した。煙草を吸いながら読む論文や本は、どうも吸わない時よりも研ぎ澄まされていくナイフがどんどんと目の前に立ちふさがる難義な文章・思考を斬っては解釈してくれた。それはかつての自分の「もう煙草とは、おさらばだ」といった志は無駄であったことを教えてくれた。つまり不健康そのものが死ぬことを示すわけではないが、「死」をある程度実感するきっかけであることは確かだ。命を削る感覚を抱く。私自身を見出すにはこの方法が最もやさしいのかもしれない。
 また、不健康な精神に身を寄せてくれる極悪な「やさしさ」も存在する。名を出してしまえばキリがないが、ここ数日で読んだ三島由紀夫仮面の告白」は正にそのものであった。正直に言って、もっと早くこの本と出会うべきであった。それは三島由紀夫という人間に興味を持ち、その人生を知るためだけではない。仮面の告白には三島由紀夫の素性、いわゆる心苦しく現実と対面し、踠きながらも生きていく様子が見られる。三島由紀夫と私自身が相似であるとは言えないが、共通項を見つけることが仮面の告白をはじめとする作品の中に散見されるのだ。
 書籍を選ぶ時、直観的に選ぶことが多いものの背景には「偶然」で埋め尽くされているように思える。この頃の精神状況でなければ、仮面の告白のような作品は三島由紀夫という人物のおよそ二三年間の人生をなぞるだけに過ぎず、私自身とこの書籍に共感することのできないままにその内容にただ驚愕するだけだっただろう。また、仮面の告白を「何故このタイミングで読破したのか」というのも私自身を見つめると非常に面白い。これだけ三島由紀夫作品における代表作だと世間一般的には言われているにも関わらず、最初に読んだ作品は「女神」だ。勿論、女神が無ければ三島文学には興味を抱かなかったわけだから、これも偶然であると考える。何とも私は偶然に引率されているのだとこの世のあらゆるものに対して感じている。


可変していく解(一月一八日付)

 

生きていることも偶然、死ぬのも突然。親より先に死ぬなという師の言葉だけを持って、私は喫茶で煙草でも吸いながらぼんやりと目の前に羅列された文章でも斬り付けていきましょう。以上。